時計の針は10時半を指している。
いや、そんなはずは無い。
僕は目を擦りながら、もう一度時計を見つめ直した。
相変わらず時計は能天気に10時半を指している。
僕はガバッと体を起こした。それを合図に心臓が激しく鼓動し始める。血液が激流となって体中を走り回る。
脳が一気に活性化して、自分の置かれている状況が流れ込んでくる。
ヤバイ。マジでヤバイ。
今日は妻とランチデートの約束をしているのだ。妻は子供を預けるために昨日から実家に帰っている。
僕は妻子がいないのをいいことに、昨晩は深夜まで飲んでしまったのだ。お酒の魔力で目覚まし時計に全く気付かなかった。
待ち合わせは渋谷のヒカリエに11時半。僕の家からヒカリエまで、だいたい1時間かかる。1ヶ月も前からこの日を楽しみにしていた妻を思えば遅刻するわけにはいかない。
だが、どう計算しても、僕は崖っぷちに立っている。むしろ崖から落下中なのかもしれない。
急いで準備しなくては。そう思った矢先、妻からLINEが届いた。
「今どこらへん?」
余裕が無い僕は深く考えずに返信した。
「まだ家だよ。」
送った瞬間に後悔した。
しまった。。。寝坊しているのがバレる。
すかさず妻から返信が来た。
「は?」
言葉の持つパワーとは恐ろしいものだ。たった「は」と「?」の2文字だけで、スマホの向こうにいる妻の表情、妻の感情、そしてこの先、僕に降りかかる災難が脳内にくっきりと現れた。
ヤバイ。マジでヤバイ。
ただ、そんな事言っててもしょうがない。過去は変えられなくても、未来は変えられるはずだ。
2日酔いによる頭痛に耐えながら、自分史上最高の速度で出かける準備をした。
髪をセットする時間は無いから帽子を被り、コンタクトは電車の中で付けることにした。
10時35分、家を出発。
最寄り駅まで全力疾走だ。一本でも早い電車に乗りたい。ウサイン・ボルトが泣いて土下座するくらいの速度で走り続けた。
駅に到着した時、小さな奇跡が起きた。
電車が定刻から5分遅れているおかげで急行に飛び乗れたのだ。神様、仏様、JR様。Suicaのペンギンを思い浮かべながら感謝した。
これでギリギリ間に合うかもしれない。
デートに遅刻はもっての外だ。男性は女性との待ち合わせでは必ず先に来ていなければいけない。
悠々と後から現れても喜ばれるのはイケメンだけだ。“凡人たるもの紳士たれ”である。
妻に「ちゃんと間に合うよ」とLINEし、ソワソワしながら電車が渋谷駅に着くのを待った。
11時25分、渋谷駅到着。
ドアが開いた瞬間、僕は電車から飛び出した。そのままヒカリエに向かいたいとこだが、キオスクに寄る必要がある。お酒の匂いを消すために口臭ケアサプリを買うのだ。
サプリのケースには、通常は1粒、匂いが強い時は2粒と書いてある。
僕は一度に5粒を口に投げ込んだ。口内に強烈なマスカットの匂いが広がる。めちゃくちゃ気持ち悪い。でも、これで酒臭さは無くなるはずだ。
サプリを飲み込んで、再び走り始めた。ところが、ヒカリエの場所が全然分からない。
なんで案内表示がないんだ!
僕は悪態を吐きながら、野生のカンを頼りに走ることにした。渋谷駅というコンクリートジャングルで野生のカンが有効なのかは分からないし、そもそも東京育ちの僕に野生のカンが備わっているかも分からない。それでも自分を信じて走るしかないのだ。
後で分かったことだが、僕は最短ルートでヒカリエまで駆け抜けていた。野生のカンは無くとも都会のカンはあったのだ。
11時29分、ヒカリエ到着。
ゼェゼェと息を切らしながら、僕はヒカリエの入口に辿り着いた。妻はまだ来ていない。何とか助かった。
大きく深呼吸をして呼吸を整え、汗だくの顔をハンカチで拭いた。5分前に悠々と到着した紳士として振る舞うのだ。
あたかも暫く待っていたかのような雰囲気を醸し出しながら妻を待った。
11時30分、妻が到着。
駅の方から、いつもよりちょっとオシャレをした妻が歩いてくるのが見える。
「間に合ったんだね?」
ニコニコしながら妻は言った。機嫌は上々だ。
僕はふふっと笑いながら、妻と腕を組み、予約しているレストランに向かって歩き始めた。
そして、こう呟いた。
「僕がデートに一度でも遅刻したことがあったかい?」
Fin.
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