新型コロナ向けmRNAワクチンを解説する記事では、たいていこんな事が書いてあります。
「将来この技術はがんワクチンに応用されるでしょう」
これを読んで何となく雰囲気は分かっても、がんワクチンが働く仕組みを理解している人は少ないと思います。
明日から知ったかぶりできるように勉強しておきましょう。
がん細胞というのは喫煙だったり紫外線だったり原因は様々ですが、細胞の中のゲノムDNAが変異することで発生します。ある日、普通でいい子だった細胞がグレてしまうのです。
身体の中で自警団として働いている免疫細胞はがん化した細胞がいないか見張っています。ところがいくつかの問題があって、簡単には見つけられませんa)。なにせ元々は普通の細胞。真面目な高校生をやっているけど、実はトイレで隠れてタバコを吸っているといった感じで、グレてるのか簡単にはわからないのです。
そこで免疫細胞にがん細胞の特徴を教えてあげるのががんワクチンなのです1,2)。
ゲノムDNAは細胞の設計図の役割をしており、それが変異するわけですから、普通とは異なる分子ががん細胞の中で作られます。
この分子はがん細胞だけに存在するので、普通の細胞との区別に使えます。それを免疫細胞に教えてあげればいいわけですね。理論通り働けば、免疫細胞はがん細胞を見つけてボコボコにしてくれるはずです。
免疫細胞に覚えさせる分子をネオアンチゲンと言います。ネオアンチゲンを利用したワクチンのコンセプトは昔からあったのですが、2015年頃からやっと論文で良い成果が発表され始めました3-5)。がんワクチンの発展の裏には3つの技術的ブレイクスルーがあるのです。
1つ目は次世代DNAシーケンサです6,7)。
ネオアンチゲンを見つけるためにはがん細胞のゲノムDNAのどこが変異しているのかを調べる必要があります。
でもそれは簡単ではありませんでした。ゲノムDNAは何個の分子が繋がったものかご存知でしょうか。
約30億個です。
こんな沢山の分子の情報を読み取れるのが次世代DNAシーケンサです。
2000年頃までは国家ぐるみで人間のゲノムDNAを解析していました。その頃使っていたのが第一世代のDNAシーケンサです。
それを進化させたのが次世代シーケンサで、今や1研究室でもゲノムDNAを全解読できます。
2つ目の技術的ブレイクスルーは計算科学の発達です。特にディープラーニングがこの分野でも活躍しています8)。
30億個のDNA情報が得られたとしても、どんなネオアンチゲンが細胞で作られるかを解析しないといけません。
特に重要なポイントがあって、そのネオアンチゲンを免疫細胞が認識できるかどうかです。
例えば背中に刺青のある人は全員悪人という情報があっても、相手が服を着ていたら分かりません。顔だったり服だったり表に出ている特徴が必要です。
つまり、がん細胞の表面に出ているネオアンチゲンを推測しなければいけません。この推測精度が計算科学の発達と共に上昇してきましたb)。
こうやってネオアンチゲンを決めるとこまでは来ました。次の課題はどうやってネオアンチゲンの情報を免疫細胞に教えるかです。
がん細胞でゲノムDNAのどこが変異するかは主にランダムです。つまり患者さんによってネオアンチゲンが異なるのです。
あなただけのオンリーワン。世界に一つだけのネオアンチゲンですc)。創薬側から見るとこれは全然嬉しい話ではなく、患者さん一人一人に適合したワクチンを作る必要があるわけです。
コストや手間を考えると、そんなの無理ゲーじゃんとなっていたんですね。
この難問を打破するのが3つ目の技術的ブレイクスルーであるmRNAワクチンです。
mRNAワクチンの特徴は、低コストでかつ迅速に設計・生産できること。そして身体の中で任意の分子を作れることです。と、昔から言われていたのですが、実証されていませんでした。なにせ実用化されたものは無かったのですから。
本当に理論通り働くのか懐疑的な人もたくさんいたわけです。それが今やコロナ禍での大活躍により、もう実力を疑う人は少数派でしょう。
AI分野がそうであったように、良い成果が出た研究領域には他分野の優秀な人材がどんどん参入してきます。そして加速度的に研究が進んでいくのです。
mRNAワクチンは過去にないスピードで発展していくはずです。
ここで紹介した3つの技術的ブレイクスルーによって人類はがんワクチンという強力な武器を手にしようとしています。
がんと診断された場合、がん細胞を身体から採取してきて次世代DNAシーケンサで解析。ディープラーニングを活用してネオアンチゲンを決定。そしてmRNAワクチンを投与することで免疫細胞にネオアンチゲンの情報を伝える。すると、免疫細胞ががん細胞をやっつけてくれる。こういった治療法が誕生するのです。
さて、長々とがんワクチンについて説明してきました。最後にとっても大事なことをお伝えします。これまで書いてきた中でもっとも重要な話です。
あなたやあなたの大切な人ががんになった時、けっしてがんワクチンを頼ってはいけません。
有望なテクノロジーであることは間違いありません。でもまだ臨床試験段階です9)。実用化されたものはありません。
Googleで“がんワクチン”と検索して出てくるクリニックを頼るのはやめましょう。
自分の体でがんワクチンを試して科学の発展のために身を捧げる!という意気込みの方もいるかもしれません。
残念ながら、きちんと設計されていない臨床試験は科学を一歩も前に進めないのです。
でもそれは漫画に出てくるような荒唐無稽な代物ではありません。着実にエビデンスが溜まりつつある現実的な目標です。
将来がん医療に革命をもたらすことは間違いないでしょう。
【補足】
a) 免疫細胞ががん細胞をうまく処理できない理由は、制御性T細胞の影響であったり、がん細胞周囲の微小環境の影響であったり様々です。がん細胞には免疫細胞の攻撃を止めさせる機能があり、そこにアプローチしたのがノーベル賞になった免疫チェックポイント阻害剤です。
b) 次世代シーケンサやディープラーニングに限らず、複数の手法を使ってネオアンチゲンの同定が試みられています。しかし、ネオアンチゲンを同定できたとしても治療用に有効だったのはごくわずかであったという報告もあります10,11)。一方、薬によってネオアンチゲン量を増やして免疫細胞に認識しやすくさせようという試みもあります12)。ホットな研究領域ですね。
c) がん細胞には複数の変異が入るので、ネオアンチゲンが1つとは限りません。オンリーワンというよりはオンリーワンセットと言った方がいいかもしれません。また、がん細胞で頻繁に起こる特定の変異があるので患者間で共通のネオアンチゲンも存在します。その共通のネオアンチゲンを狙うことで1種類のワクチンで多くの患者を救おうという試みもあります。
【参考文献】
- Miao, L. et al. mRNA vaccine for cancer immunotherapy. Mol Cancer 20, 41 (2021).
- Duarte, J.H. Individualized neoantigen vaccines. Nature Milestones:Vaccines. 525 (2020)
- Carreno, B.M. et al. A dendritic cell vaccine increases the breadth and diversity of melanoma neoantigen-specific T cells. Science 348, 803–808 (2015)
- Ott, P. et al. An immunogenic personal neoantigen vaccine for patients with melanoma. Nature 547, 217–221 (2017).
- Sahin, U. et al. Personalized RNA mutanome vaccines mobilize poly-specific therapeutic immunity against cancer. Nature 547, 222–226 (2017)
- Mardis, E.R. Genomic prediction of neoantigens: immunogenomics before NGS. Nat Rev Genet 22, 550–551 (2021)
- イルミナ:次世代シーケンサ(NGS) の紹介(9月29日アクセス:https://jp.illumina.com/science/technology/next-generation-sequencing.html)
- Chen, B. et al. Predicting HLA class II antigen presentation through integrated deep learning. Nat Biotechnol 37, 1332–1343 (2019)
- Blass, E. et al., Advances in the development of personalized neoantigen-based therapeutic cancer vaccines. Nat Rev Clin Oncol 18, 215–229 (2021)
- Löffler, M.W. et al. Multi-omics discovery of exome-derived neoantigens in hepatocellular carcinoma. Genome Med 11, 28 (2019)
- Samuels Y. et al. Combined analysis of antigen presentation and T cell recognition reveals restricted immune responses in melanoma. Cancer Discov CD-17-1418 (2018)
- Truong A.S. el al., Entinostat induces antitumor immune responses through immune editing of tumor neoantigens. J Clin Invest 131(16):e138560 (2021)
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